自己家畜化するヒト、削られる石 ― 幸福感と落とし穴

こんにちは!
石のシンシア・彫刻担当の蘭史郎です。
最近、イノシシ増加による農作物被害が増えたので、増加原因を検索してみたところ、野生のイノシシと豚の交配種である「イノブタ」原因説が浮上しました。野生のイノシシは年1回の繁殖期しか持ちませんが、家畜ブタと交配して生まれたイノブタ(猪豚)は一年中繁殖期となり、繁殖力が野生イノシシの5倍に達するそうです。家畜化は繁殖サイクルを変化させ、個体数の急増を引き起こすことがあるようです。

ところで、我々人間自身に目を向けると、近年「自己家畜化」という概念が注目を集めています。繁殖の季節性を失っている点や近代における人口爆発的増加等、とても興味深い類似があります。

そこで今回は、人類の「自己家畜化」と、そこから生じる「幸福感と落とし穴」について、石工目線の考察をしてみました。


第1章:自己家畜化とは何か?

自己家畜化(self-domestication)という言葉は、
近年、進化人類学の分野で注目されている仮説です。

犬や豚のように、人間が他の種を家畜化するように、
人間自身にも、集団内選別とそれに伴う変化があったのではないか?
という考え方です。

特徴は:

  • 攻撃性の減少(特に衝動的な暴力)
  • 顔の平坦化(幼形成熟=ネオテニー)
  • 性差の縮小
  • 脳容量の減少(全体的なコンパクト化)
  • 繁殖期の喪失(いつでも繁殖できる)

これらは、家畜化動物と類似の傾向であり、
ホモ・サピエンスはネアンデルタール人などの「野生的な人類」と比較しても、
骨格的にも、行動的にも、家畜的であることが分かってきています。


第2章:幸福感は「家畜化の副産物」だった?

自己家畜化によって、人類は他者との協力性を高め、社会性を発達させていった。
その中で重要なのが、「幸福感」や「快の感受性」です。

家畜化によって変化する神経系:

  • ドーパミン系:報酬への反応が敏感になる
  • オキシトシン系:共感や愛着を感じやすくなる
  • セロトニン系:穏やかで安定した気分を保ちやすくなる

これらは、まさに「社会的な幸福感」を感じるための神経回路です。
家畜化された動物(犬など)も、人間との接触でオキシトシンが分泌される。

同様に、人間もまた他者とのつながり、承認、共感、笑顔といった
「社会的報酬」を強く感じるよう進化しました。


第3章:「幸福感」は手段か、それとも目的か?

問題はここからです。

本来、「幸福感」は社会生活を円滑にするための手段的な情動だったはずです。
協力による報酬、歓び、信頼と安堵感――

そこまでは良かったのですが・・・

よくあるメッセージ:

  • 「意味ある人生を過ごそう」
  • 「自分らしく、幸せになるために生きよう」
  • 「人生、〇〇でなければ意味がない」
  • 「幸せになるために生まれてきた」

これらは、ポジティブなように見えますが、その反面
「生きることそのもの」よりも、「意味」や「幸福」が上位になっています。
「手段」だったものが「目的」になった。

つまり――
「階層の取り違え」が起きています。


第4章:階層の誤認がもたらすもの

これは、私の個人的経験ですが、
幼少期に喘息の発作で、息ができなかったとき、
そこには「生きなければ」という反射がありました。

あの感覚は、生物として最重要であり最上位階層、
人生において最も優先されるべき本質だと感じました。

しかし現代の私たちは、「幸せになれないから生きられない」と言い、
「意味が見つからないから希望がない」と悩みます。

呼吸が苦しくても、人は生きようとする。
だが、意味がなければ、生きられないと思い込む。

これは危険な「階層の反転」です。

”生”の階層モデル例

1階:生理的な”生”(呼吸、食事、安全)
2階:感情的な”生”(快・不快、恐怖、愛着)
3階:社会的な”生”(協力、所属、関係性)
4階:意味的な”生”(自己実現、目的、幸福感)

飽くまで、階層順位に対応したモデル例ですので、
視点を変えれば違った表現も可能ですが、
通常であれば1階と4階が逆転することはありません。

土台である1階~2階が健在であるにもかかわらず、
表層である「4階が崩れた」状態をもって絶望としてしまう傾向は、
「意味」や「幸福感」依存によって生じる、
階層の逆転現象ではないでしょうか?


第5章:幸福依存と「意味依存症社会」

自己家畜化によって、「幸福を感じやすくなった」人間は、
逆に「幸福がないと苦しくなる」のかもしれません。

これを私は、「意味依存症社会」だと感じています。

  • SNSでの「いいね」がないと不安
  • 毎日「意味のある日」であることを求める
  • 「やりがい」「自己肯定感」が報酬になってしまう

本来、石のように、そこに「在る」だけでよかったものが、
「意味づけされなければ存在できない」という地盤沈下が起きています。


第6章:石は、目的を持たない。


石を削っていると、ふと気づくのですが、
本来、石は「意味」を持ちません。仮に仏像であれ、
見た人がその形に「意味」を見い出します。

  • 形に意味を持たせるのは、人間側の想像力
  • けれど、石は我々の感じる「意味」に依存していません
  • 静かにそこにあるだけです

人間も、本来はそうだったのかもしれません。

もし、「意味を持って生きる」のが息苦しければ、
意味」から解放され、もう少し「意味」から自由になれると良いと思います。
固定観念からの脱却は難しいものですが、
ほんの少しの時間だけ息を止めてみれば、アッという間に苦しくなります。
一食抜いただけでもおなかが減り、自分自身の構造に気付くことができます。

受動意識仮説によれば、「意識」は出来事を後付けに説明し、
「意味」を変えてしまうのだそうです。
もしそうであるなら、
自分自身の人生の「意味」は主観で変化します。
客観から自由になれば、もっと自然な自分になれる気がします。

そもそも、「意味」に固執し「生」が脅かされるのは本末転倒です。
「幸福」にも、それと似た側面があります。

もちろん、「幸福」や「意味」を否定している訳ではありませんし、
「意味などない」と主張したい訳でもありません。

「生」が「主」であり、「幸福」や「意味」は「従」という
本来の視点に立ち返れば、家畜化された我々であっても、
もう少し地に足が付くのではないでしょうか。

「幸福」や「意味」の追求は、
ポエム的であったり、哲学的であったりしますが、
心が疲れている危険な時に、命がけで追求すべきものとは思えません。

今回の記事は、
機能的側面としての「幸福」や「意味」について考えたものです。
もっと大きな範囲の「意味」の存在を否定するものではありません。


あとあがき

「石を削る」作業は、
形を作るというより、「余分を取り除く」行為です。
それは、私の心の中の「意味依存」や「幸福病」を
少しずつ削っていく作業なのかもしれません。

自己家畜化された私にとって、
石の沈黙は、かすかな「自由の感触」を思い出させてくれます。


蘭史郎

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