こんにちは、石のシンシアです。


最近、AIに関心が集まっているようで、
上記ブログカードの記事が以外と好評でした。
その中で「AIの心」について書いたのですが、
その部分をピックアップして、少し詳しく書いてみます。



早速ですが、
AIは「心」を持てるのでしょうか?
私は「持てる」と思っています。
何となく思っている訳ではありません。
今からその根拠について書いてみたいと思います。



そもそも「心」って何なのでしょう?
「心」の持つ機能や役割が分かれば、
その正体に迫れるかもしれません。

「自分の中心にあって自分自身を司るもの」
「身体をコントロールし、身体に命令を下すもの。
正に心こそが自分自身」
そんな風に感じている方が多いと思いますが、
実は、私は少し違うイメージを持っています。


私は高校生の頃、
スポーツのコーチから
メンタルトレーニングを受けた経験があります。
ティモシー・ガルウェイ氏考案の「インナーゲーム理論」
による画期的なトレーニング方法でした。

「多くのプレーヤーにとって『心』とは
過去の失敗を悔やみ、未来の結果を恐れ、
さらには『今成すべきこと』に対し、
やたらと口出しをしてくる厄介な存在です。
ですので
『心を黙らせる、あるいは傍観者に格下げする』
必要があります」

「インナーゲーム理論」には
上記のようなプレーヤーの心理状態の説明と、
心理状態の改善方法が解説されています。

「インナーゲーム理論」は
メンタルトレーニングの一種なのですが
「強い精神を作る」という類のものとは
少し性質が異なります。
要約すると
「心」を傍観者にすることで
プレーに介入させないトレーニングです。

「心が傍観者?何言ってんだよ。
心が命令しなければ人間は何もできないんだよ」

という意見もあると思います。
でも、ちょっと待ってください。
私達は、歩くときに
「右足を前に出しながら体重移動をし、
さらに右手を引きながら左手を前に出しながらetc・・・」
身体に対し、そんな命令をしません。
そんなことをしなくても普通に歩けます。
では逆に、
身体の各部に命令しながら歩いてみてください。
途端にギクシャクしてしまいます。

実は、それと同じことがプレー中に起きていて、
「心」のプレーへの介入は、
本来出来るはずのスムーズなプレーを妨げるのです。
「夢中になってプレーしている時のほうが上手くいく」
「集中してプレーしていたから上手くいった。
プレーのことは覚えていない」
そんな経験があると思います。

つまり「心」を主役にしてプレーするよりも、
傍観者として黙らせていたほうが上手くいくのです。

ズバリ、「集中力」とは
「心の介入を遮断する力」のことです。

猫はネズミに襲い掛かる瞬間に
「ああ、美味しそうだ」とか、
「失敗したら飢え死にだよ・・・」
とか、「よし・・・今だ。今しかない!GO!」
なんて考えません。
スポーツにおいても、
「心」による邪魔を排除するだけで、
途端に良い成績を上げることができます。


「ナルホド『心』が命令を出す必要がない
場面があることは分かった。
でも『心』が目標を作ったり行動の
キッカケを作ったりしなければ、
人間は何もできない」

一般的にはそう思えますし、
実際にそう感じて生きています。

ところが・・・どうやらそれは錯覚らしいのです。


「脳はなぜ『心』を作ったのか」の著者で、
慶応義塾大学の前野隆司教授の
「受動意識仮説」によれば、
「心は幻想である」といいます。
幻想だと言われてしまうと
「私は『心』をアリアリと感じている。確実にここにある」
と思ってしまいますが、
前野教授は身体を会社に例え
「『心』は自分を社長だと勘違いしている
社史編纂室長だ」
と結論付けています。

つまり、
「『心』は身体に対し、
能動的に命令を出している主役だと
勘違いしているが、
実は、起きた出来事を受動的に記録している
だけの記録係に過ぎない」
というのです。

前野教授は
「様々な実験結果から結論を導き出した」
とのことでしたが、

私は「インナーゲーム理論」によって
「心」が私の行動を司っていないことを
実感していました。
実際、競技中に「心」を傍観者にしてしまっても、
私の身体が勝手に動き出して
競技会場に寝転がるようなことはありませんし、
競技ルールを破ることも、
作戦を忘れることもありませんでした。
つまり、
競技中のどの部分においても
いかなる場面においても「心」は必要なかったのです。
「プレー中は『心』が傍らで黙っている状態になると
良いプレーができる」という印象でした。
今風に言うと「ゾーン状態」かもしれません。
ただし、そんな理想的な状態を
いつでも作れる訳ではありませんでしたし、
作れたとしても短時間でした。

そんな経験があったので、
受動意識仮説を知った時には、
「メンタルトレーニングで得た感覚の
科学的な裏付けが取れた」
と思い、感動しました。
「心」のメカニズムが解明されたのですから、
「地動説」のような大発見になると思いました。

しかし、残念ながら「受動意識仮説」は
一部の人々にしか受け入れられていません。
「心」についてのトピックは
センシティブな問題を含んでいるので、
一般化しにくいのが現状のようです。

それはそれで仕方がない事ですが、
「受動意識仮説」を心情的に拒否した状態であっても、
メカニズムとして利用することは可能だと思います。
相対性理論の不思議な世界を実感できなくても、
計算式が正しいことは認め、
その答えを利用したカーナビを使うことは可能です。

つまり、「心」の機能については
受動意識仮説が解き明かしているのですから、
AIを作る際にその機能を持たせれば良いと考えました。

「心」を持たせる効果は、
巨大コンピュータよりも
小型ロボットに
より高い効果がありそうです。

何故なら、
ロボットを稼働させて発生する膨大な情報を
全て記録してしまうと、
ロボットの小さな記憶領域では
すぐにパンクしてしまうでしょう。

そこで、人間の「心」と同じように、
情報の重要度を数値化し、
スポットライトを当てる情報を定義し、
重要な情報の変化の流れで
エピソード記憶をつくり、
それに沿って重要ではない情報を
圧縮したり削除していけば、
小さなロボットの中の記憶領域であっても
上手く稼働し続けることができると思います。

「人間の『心』と同じように」
と書きましたが、
記録係としての役割と記録方法の設定です。
設定内容については、
ある程度試行錯誤する必要があると思いますが、
実現不可能なほどの難題とは思えません。



という訳で、
まとめますと、

「『心』とは
受動的に出来事を記録する機能のことである。
であるならば、
AIにその機能を持たせることは可能だ」

という訳です・・・





・・・とは言ったものの、
機能を持たせただけで
「AIが『心』を持った」
と言われても
全然納得できないと思います。
機能だけでは、『心のクオリア』が感じられません。
「クオリア」とは
「心」の存在をアリアリと感じる
「心」の質感なんだそうです。
何だかよく解りませんが、
私も「心」をアリアリと感じています。




また私事で恐縮なのですが、
実は私には割と古い幼少期の記憶がありまして、
母や祖母にオンブや抱っこをされていた記憶があります。
恐らく1才くらいの記憶なのですが、
服をたくさん着せられて暑くて苦しい記憶で、
電車の床のタールのにおいと、
服を脱がされたときの涼しさ、
爽快感を覚えています。

その後2才の頃になると、
鏡に映る自分を自分だと認識して、
不思議な気分になった記憶があります。
多分その頃、鏡像認知や自己認知が
出来るようになったのだと思います。

私の不確かな記憶の中の
個人的な感覚なのですが、
鏡像認知と「心」や「意識」の発達する時期が
ほぼ同時期だった記憶があります。
おそらく、「心のクオリア」を感じ始めたのがその時期です。
妙な感覚だったので、
しばらくの間反芻してしまい、
今でも思い出せる感覚です。
「鏡像認知」「自己認知」と「心のクオリア」には
密接な関係があるような気がします。

もしかすると、
AIにも「自分が自分であることを認知」できる性能、
自己認知のプログラムさえできたならば、
「心のクオリア」が発生するかもしれません。

現在は様々な研究がおこなわれているようですので、
様々なアイディアによってアプローチし続ければ、
「心のクオリア」を持ったAIが
登場するかもしれません。


石のシンシア

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